陸上界の消えた天才、田村育子の現在!
陸上中距離の田村育子は将来を期待されいたはずが、まさかの怪我で引退することに。
野口みずきがアテネオリンピックで金メダルを獲れたのは、田村育子の支えがあったから?
野口みずきが嫉妬するほどの才能を持っていた田中育子は現在どうしているのか。
当時のエピソードと一緒に見ていきましょう。
【今日の消えた天才】
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田村育子と野口みずきは親友だった
まずは田村育子という選手のことを簡単に紹介したいと思います。
田村育子
生年月日:1978年9月24日
出身:香川県
種目:1500m(中距離)
引退:2005年
田村育子は香川県立高松商業高等学校を卒業し、1997年にワコールに入社します。
そこに同期として入ったのが後のアテネオリンピックの金メダリスト、野口みずきでした。
ワコールの陸上部で二人は藤田信之監督の指導を受けることになり、監督に才能を認められ早くも将来を期待される選手となります。
しかし、ワコールに入社した翌年の1998年、藤田監督が会社と対立し解任。
その際に田村育子と野口みずきら数名の選手が声をかけられ、田村も野口も監督についていくことを決断します。
ワコールを辞めて会社の寮を出ることになった田村育子は市内のアパートを借りて野口みずきと一緒に生活することになりました。
家賃7万円の3LDKに二人暮らし。
仕事を辞めてしまったため失業保険を受け取りながら、ハローワークに通い、細々と生活していました。
お金に余裕がないので夕食は自分たちで作り、無駄遣いせず、外食は月に数回の贅沢であり二人の楽しみ。
安い商品がないか買い物のチラシを穴があくほど見て節約。
田村育子の得意料理は麻婆豆腐、野口みずきは青椒肉絲が得意で交代で料理を作っていたそうです。
練習も生活も一緒で、苦しい時期を共に過ごした仲間ですから、親友と呼べるほど深い絆で結ばれるのも頷けます。
しかし、いつまでも失業保険を受け取れるわけではないため、どうにかして仕事を探さなくてはいけない。
そんな中、1999年2月に開催されたハーフマラソン大会に野口みずきが招待され、大会新記録で優勝。
ちなみにこの大会に招待された時、野口みずきは「交通費を負担してくれるなら」と条件を出して参加していました。
大会優勝が評価されて翌月、藤田監督と野口みずき、そして田村育子はグローバリーという会社への移籍が叶い無事、ハローワーク生活から抜け出すことができました。
グローバリーに入社した田村育子は2000年・2001年・2002年の日本選手権(1500m)で優勝し三連覇を達成し、圧倒的な強さを見せつけます。
しかも、2002年の日本選手権では日本記録(当時:4分10秒39)を達成し、1マイル走でも日本記録・アジア記録を打ち立てました。
1マイル走:4分34秒81
田村育子は間違いなく世界で通用する選手へと成長していったのです。
田村育子の引退理由は怪我
大会で好成績を出し続ける田村育子に日本代表選手として世界と戦うチャンスが訪れます。
それが、2002年に開催された釜山アジア競技大会。この大会の代表選手に田村育子が選出。
夢の舞台、オリンピック出場へ大きな一歩を踏み出しました。
しかし、アジア大会に田村育子が出場することはありませんでした。
日本の中距離の絶対的エース田村は日々の練習で左脚を怪我をしてしまい、まともに走ることができなくなってしまったのです。
早く怪我を治して競技に復帰したい!
田村育子は左脚の手術をして、再びシューズを履くために辛いリハビリに励みます。
長いリハビリに耐え抜きなんとか走れるようになった頃には、怪我から1年以上も経っていました。
怪我とブランク明けということもあり復帰戦は不安視されながらも2004年関西実業団陸上大会で見事優勝(1500m走)。
誰もが田村育子の完全復活とこれからの活躍を確信しました。
そんな期待もむなしく2005年3月、田村育子は現役を引退します。
引退理由は左脚の怪我。
一度は手術で治ったはずの左脚だったのですが、なかなか完全には戻らず自分のイメージした走りが出来なくなったと言います。
なんども手術を繰り返しても治らない怪我に、焦りと不安がつもり復帰するという方向に気持ちを持っていけなくなった田村育子。
当時まだ26歳でした。
引退と共に勤めていたグローバリーを退社。
引退理由は左脚の怪我と言いましたが、実はその他にも田村育子を引退させた出来があると言われています。
田村育子が引退した理由
田村育子が引退した理由、もちろん怪我が最も大きな理由なのですが、加えて次のようなことも考えられます。
それは野口みずきがオリンピックで金メダルを獲得したから。
野口みずきは2004年のアテネオリンピックのマラソンで金メダルを獲っています。
野口みずきの独創状態から残り10kmでヌデレバの猛追にあい、追い抜かれそうになってしまいました。
そしてゴールまであと2km、野口が明らかにペースダウンし腕の振りも小さくなっていきます。もうダメか…
との時、「みずきっ!」
コース脇で大きな声で叫びながら野口みずきと並走している田村育子の姿がありました。
田村育子は左足を引きずりながら走り野口を応援、それに応えるかのように野口も息を吹き返しヌデレバと再び差を広げます。
この時のことを野口みずきはこう語っています。
「イクの声が背中を押してくれました」
そして野口は12秒差でヌデレバに勝ち金メダルを獲得。
この時、夢を叶えたのは野口だけではありませんでした。
田村育子はオリンピックで金メダルを獲るという夢があり、怪我によってその夢は途絶えそうになりましたが、一緒に頑張ってきた野口みずきが金メダルを獲ってくれた。
田村育子は野口に自分の夢を託していて、アテネの金メダルで夢が叶い引退を決意できたのではないでしょうか。
そしてもう一つ、引退の背中を押してくれたのが1500mで持っていた田村育子の日本記録が破られたこと。
記録が破られたことで自分の時代が終わったような気がして、復帰するモチベーションが無くなったと考えられます。
復帰できてもかつてのような走りは難しいと悟り、過去の自分よりも強い選手が現れた。
現役続行を諦めるには十分すぎる理由でした。
そして、田村育子は自身の日本記録が破られたその月(2005年3月)に、現役引退しグローバリーを退社しています。
田村育子の現在【消えた天才】
そんな消えた天才、田村育子の現在はというと引退した今でも陸上競技に関わっていました。
田村は当時の藤田信之監督が主催する「F・R・A藤田ランニングアカデミー」でランニングアドバイザーとして活動し、未来のオリンピック選手を育てるべく指導しています。
藤田ランニングアカデミーのスタッフには、田村育子の親友であるアテネオリンピックの金メダリスト野口みずきもいます。
ワコールに入社してから退社し、苦しい時期を励まし合いながら乗り越えてきた三人の絆が、どれほど強いものなのかが伝わってきます。
日本の陸上競技を盛り上げてくれた選手と監督が現在は、日本の陸上競技の未来を育ててくれているというのは、感慨深いものですね。
26歳という若さで怪我に泣かされ引退した消えた天才、田村育子は現在教え子にオリンピックに出場することを夢見て走り続けています。
【今日の消えた天才】
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