ドラフトを拒否した高見泰範の現在!
野球界の消えた天才キャッチャー高見泰範の成績や、これまでの経歴を詳しくまとめました。
社会人野球で世界を驚かせた高見泰範の実力とは。
バルセロナオリンピックではキャッチャーなのに打撃で大暴れ。
プロ入りを拒否し東芝へ進んだ高見泰範について紹介します。
高見泰範の野球の成績
まずはじめに高見泰範の簡単なプロフィールをご覧ください。
高見泰範
小学校4年生の時からキャッチャーだった高見泰範は、中学でも野球を続け岐阜県の羽島北高校に入学します。
高校生の時の遠投記録は120m、かなりの強肩。
3年の春には岐阜大会で優勝したのですが、甲子園への出場は叶わず夢の舞台に立つことは一度もありませんでした。
大学は愛知工業大学へ進学し大学リーグで活躍。
高見泰範の4年間通算成績
353打数111安打
打率.314
6本塁打
36打点
キャッチャーでありながら打席に立てば塁に出るという、プロスカウトも釘付けの才能を発揮。
大学リーグのベストナインに2回受賞されています。
もちろん捕手としての実力も素晴らしく、投手のクセやその日の調子を把握したアプローチが際立っていました。
よく捕手が投手に「もっと腕を振れ」と喝を入れる場面を見ますが、高見泰範は一切そのようなことはしませんでした。
欲しいところに投げてくれないなら、欲しいところにボールが来るようにミットを構えればいい。
打たれるのはピッチャーではなくキャッチャーの責任で、打たれない場所にボールを導くのが自分の仕事であると理解していたからです。
そのため高見泰範はチームメイトからの信頼も厚く、言葉数は多くないもののチームの中心となっていました。
そして大学4年生の明治神宮大会では準優勝という成績を残し、誰もが認める大学ナンバーワンキャッチャーと呼ばれるようになりました。
高見泰範がドラフト指名もプロ入り拒否
大学リーグで注目を集めた高見泰範には当然プロ野球界からも熱視線がおくられます。
1985年に行われたドラフト会議で、高見泰範は阪急ブレーブスから5位指名されました。
しかし高見泰範はドラフトでの指名を拒否してプロ野球入りはしませんでした。
なぜドラフトを拒否したのか理由は以下のように言われています。
・阪急には藤田浩雅という優秀な捕手がいて、自分が入団しても試合に出られないと思った。
・当時はプロ野球選手はオリンピックに出場できなかったため、オリンピックに出たいと思った。
・上位指名なら行きたい気持ちはあったが、5位指名ではそこまで必要とされていないと感じた。
高見泰範はドラフトでの指名順が低かったため期待されていないと思い、藤田浩雅との正捕手争いに消極的だったとも言われています。
またオリンピックはアマチュアの大会という位置付けなので野球も同様、1996年のアトランタオリンピックまではプロ野球選手は出場できませんでした。
そのため高見泰範はオリンピックに出場してからプロ入りしようと考えていたのかもしれません。
ただ、プロ野球にいく気がなかったとも言われています。
高見泰範が東芝(社会人野球)で活躍
ドラフト拒否でプロ野球選手の道を選ばなかった高見泰範は、東芝に就職して社会人野球に活躍の場を求めます。
入団一年目から都市対抗野球大会に出場し、持ち前の強肩と相手チームの選手をとことん研究して高めた分析力で二年目にして正捕手になり準優勝に貢献。
三年目の1988年にはついに東芝を優勝に導きます。
1986年
・1年目から都市対抗に出場
1987年
・2年目でレギュラー奪取、チームは準優勝
1988年
・3年目、東芝を悲願の優勝へ導く
・橋戸賞を受賞(捕手として52年ぶりの快挙)
・日本選手権の決勝で逆転満塁ホームランで優勝
・社会人野球で自身初のベストナイン選出
1989年
・アジア選手権の日本代表に選ばれる
・IBAFインターコンチネンタルカップの日本代表に選ばれる
(古田敦也とスタメンを分け合う)
高見泰範は捕手として、なんと52年ぶりとなる橋戸賞を受賞する快挙を達成。橋戸賞を受賞した時の高見泰範のコメントが、
守り評価されての受賞だと思っている。打った記憶はほとんどない。
しかし、振り返ってみると大会中16打数9安打と打ちまくっていたんです。
さらにその年の日本選手権決勝で、高見泰範は逆転満塁ホームランを打ってまたもやチームを優勝に導きました。
その活躍が認められて日本代表に呼ばれるようになり、ついにその時が訪れました。
高見泰範がバルセロナ五輪に出場
日本代表に選ばれて古田敦也と正捕手争いを繰り広げてきた高見泰範がバルセロナ五輪で大活躍します。
ちなみにライバルの古田敦也はすでにプロ野球選手となっていたためオリンピックへの出場資格がありませんでした。
これまでオリンピックの正式種目ではなかった野球が、正式種目となったのバルセロナ五輪。
高見泰範は日本代表のキャプテンを務め、全試合に先発出場しチームをまとめました。
日本は準決勝でチャイニーズタイペイに2-5で敗れましたが、3位決定戦のアメリカには8-3で快勝。
その試合、高見泰範は2安打2打点と大活躍。日本のオリンピック銅メダルに大きく貢献したのです。
・選手とコーチを兼任することになり出場機会が減る
1995年
・現役引退
1997年
・現役復帰(復帰はこの1年間限定)
1998年
・東芝のコーチに専念
2001〜2006年
・東芝の監督を務める
2006年の第十五回アジア大会や2009年の第三十八回IBAFでは日本代表コーチを務め、日本代表の強化に携わります。
高見泰範の現在【消えた天才】
そして高見泰範は現在、全日本野球協会の選手強化委員会で副委員長として日本野球の選手強化のため働いています。
また2008年から「スポーツWelfareぎふ」という地域住民がスポーツを通じて健康を目指す活動をする福祉事業を開始。
さらに日本野球連盟の常務理事としても活動していて、現在の日本野球界にかなり深く関わっていますね。
野球の実況解説なんかもしているので、知らないうちにテレビやラジオで高見泰範を見たり声を聞いていた方もおられるのでは?
高見泰範は幼い頃から野球を始め、現在までずっと野球と関わり続けています。
「消えた天才」ではなく、プロに入らなかっただけ。
アマチュア野球でオリンピック銅メダルに貢献し、今尚日本の野球を盛り上げてくれている高見泰範についてでした。